お隣さんのとばっちり:オランダの憂鬱とアジア進出
大航海時代後半といえば、インド、アジアで列強の東インド会社が覇を競った時代でもありました。
始まりはポルトガル
そしてオランダ、イギリス(厳密にはイングランド)、フランス
ポルトガルがインドに進出した理由は、イスラーム世界の伸張による直接的危機と香辛料にかかる税金の問題があったわけですが(プレスタージョンとコショウ)
それ以外の国々がインドやアジアに遠路はるばるカチ込みをかける必然性もまたお国柄がありました。
例えば、今回取り上げるオランダ
この国は大航海時代になってやっと独立を手に入れた若い国でもありました
それが何故、遠路はるばる船団を送り、またそれを維持することができたのか(第二次大戦で東南アジアから大日本帝国に干されるまで
そのあたりをざっくりと書いてみようかと。
まぁ、前回の反省からかなり噛み砕いた感じでやってみます。
土地も人口もさして多くはないオランダにとって、最大の武器は金融業でした。
古くはハンザ同盟、そしてフッガー家などに代表される「大銀行家」は、その多くがオランダ近辺、北海沿岸の諸都市に本拠を構えており、海上貿易のノウハウは広く行き渡っていたと思われます。
ですが、条件が整っていたところで「一歩」を人間が踏み出すには何かしらのアクシデントが必要なもので。
それはおとなりさんからの火の粉を待たねばなりませんでした。
その火の粉の名は「アルマダ戦争」
イングランドとイスパニア間のこの戦争により、当時の制海権がイングランドに移り
その結果として、イスパニア船は安定して物資を欧州に持ち帰ることが困難になります。
この「イスパニア船」という場合、えてして新大陸=欧州間の金銀タバコの輸送船と思いがちですが、もうひとつの交易ルートが存在しまして。
そのルートが
「インド航路」
あれ?イスパニアってインドに進出してたっけ、と思いますが
一つの出来事がイスパニアにインドの足がかりを与えます、
ポルトガル併合(1580年)ですね。
これにより、ポルトガル海上帝国は頭と旗をイスパニアに付け替える事態になります。
そしてインドから持ち帰るコショウは、同量の金と取引される時代
当然、イングランド私略船はインド交易船も度々拿捕する運びとなり、結果として欧州での香辛料他の輸入量が不安定になり、現代のオイルショック的な状態に陥ります。
その煽りを食らった国の一つがオランダ
一度香辛料やアジア産物の楽しみを知ってしまった人間に「我慢しろ」と言われても聞けた話ではありません。
彼らはそこで考えます、
ポルトガル人に出来て、我々に到達できない土地があるものか、と。
ポルトガルの場合、船団の多くは王室が資金を用立てていました。
大航海時代のポルトガルイベント終盤で、インドから運んだコショウが王室管理の商館に運び込まれたのも、その辺の事情があります。(船団を送るには莫大な金額が必要なので
そして、オランダにはそれらの王室にお金を貸し付けるような銀行家や資産家が多くいた事がさらに背中を押します。
ちなみに、ポルトガルも王室がお金を出してはいますが、天文学的な資金を年中プールしてるわけもなく、結局は北海沿岸の銀行家から「借り入れ」ていたようです。
彼らは顔をつき合わせて、自分達で船団を出す事、そしてそのためにそれぞれが「出資」することを考えだしました。
これは一つの歴史的事件でもありました。
「会社」という考え方、また「株」という考え方の。
一つの船団を送り出す為に、例えばその資金を100株にわけ、それぞれが1株からもっと多くに「出資」します。
船が帰ってくれば、その売り上げから経費を差し引いた残りを、持ち株数に応じて分配する。
万が一船団が戻ってこなくとも、そのリスクと損害は分散され、この頃には「保険」という更なるリスクの軽減方法も発明されています。
投資リスクを軽減するシステムを作り出したこと、
これがオランダにとって最大の「武器」となります。
第一回遠征こそ、収支は微黒字程度だったようですが、
二度目の遠征では400%近い利益をあげ、これによってオランダの資本家は確実な手ごたえと更なる東方進出を決断します。
主たる目的地は東南アジア
その後オランダ東インド会社(以下VOC)は、香辛料事業の独占を目指し、アンボイナに本拠を構え
テルナーテに影響を確保し、ポルトガル、イスパニアと争う事になります。
その後、東アジア方面からの明や日本の交易船が立ち寄るジャカルタでの「出会い貿易」(中継地を介しての交易)等へと手を広げ、徐々に東南アジアに地盤を固めはじめます。
その手法は時として、非常に血なまぐさく
時として香辛料産地の島を丸ごと根絶やしにした上で奴隷を運び込む、といったケースが発生することになります(「バンダの殺戮者」こと、ヤン・クーンなど)
方法の善悪は別として、最終的にはオランダは東南アジア事業を事実上独占することに成功します。
オランダが、少なくとも先駆者であったポルトガルを出し抜けた理由
そして東南アジアの覇者たりえた理由は、彼らの武器であった「リスクを軽減するシステム」から生まれた、会社であり、それによる資本動員力の差でもありました。
艦隊をより多く、そして安定して送り込める資金力
そしてそこから生まれた、現地での傭兵から来る軍事力の差
この二つによって、香辛料危機からオランダは脱し、同時にポルトガルから東南アジアを奪い取ります。
その副産物として、ジャカルタを共通の中継港としていた日本とオランダの交流も生み出されました。
もちろん、日本にオランダが利権を持ちえた理由としては、カトリックほど布教を重視しなかった新教国家であるという理由もありましたし
またその上で、何故オランダが金融と資本が「民間」に存在できる国家たりえたか、というあたりまで突っ込むと
古典にして名著、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義」(マックス・ウェーバー)あたりまで話が飛躍するので、その辺はまぁ、個々人で調べていただくと面白いかと思います。
まあ、ルターが生まれなければ日本に銃も出島も出来るのはずっと先だったかも、ってことですな。
閑話休題
そして、オランダの東南アジアの余波を食らって、かの「アンボイナ事件」が起こります。
オランダよりも後発で東南アジアに食い込んできたイギリス商館の襲撃と排除
これによって東南アジアへの進出拠点を潰されたイギリスはその矛先をインドへと変更する事になります。
それが遠い将来、「近代」を生み出す一歩となるとは、誰もまだ思わなかった時代。
大航海時代はその成熟期を迎えつつ、南半球で生み出される産物が欧州そのものを徐々に変革しはじめます。
次回「イギリス東インド会社が運んできたモノ」(仮称
更新日時は未定だけどね!
始まりはポルトガル
そしてオランダ、イギリス(厳密にはイングランド)、フランス
ポルトガルがインドに進出した理由は、イスラーム世界の伸張による直接的危機と香辛料にかかる税金の問題があったわけですが(プレスタージョンとコショウ)
それ以外の国々がインドやアジアに遠路はるばるカチ込みをかける必然性もまたお国柄がありました。
例えば、今回取り上げるオランダ
この国は大航海時代になってやっと独立を手に入れた若い国でもありました
それが何故、遠路はるばる船団を送り、またそれを維持することができたのか(第二次大戦で東南アジアから大日本帝国に干されるまで
そのあたりをざっくりと書いてみようかと。
まぁ、前回の反省からかなり噛み砕いた感じでやってみます。
土地も人口もさして多くはないオランダにとって、最大の武器は金融業でした。
古くはハンザ同盟、そしてフッガー家などに代表される「大銀行家」は、その多くがオランダ近辺、北海沿岸の諸都市に本拠を構えており、海上貿易のノウハウは広く行き渡っていたと思われます。
ですが、条件が整っていたところで「一歩」を人間が踏み出すには何かしらのアクシデントが必要なもので。
それはおとなりさんからの火の粉を待たねばなりませんでした。
その火の粉の名は「アルマダ戦争」
イングランドとイスパニア間のこの戦争により、当時の制海権がイングランドに移り
その結果として、イスパニア船は安定して物資を欧州に持ち帰ることが困難になります。
この「イスパニア船」という場合、えてして新大陸=欧州間の金銀タバコの輸送船と思いがちですが、もうひとつの交易ルートが存在しまして。
そのルートが
「インド航路」
あれ?イスパニアってインドに進出してたっけ、と思いますが
一つの出来事がイスパニアにインドの足がかりを与えます、
ポルトガル併合(1580年)ですね。
これにより、ポルトガル海上帝国は頭と旗をイスパニアに付け替える事態になります。
そしてインドから持ち帰るコショウは、同量の金と取引される時代
当然、イングランド私略船はインド交易船も度々拿捕する運びとなり、結果として欧州での香辛料他の輸入量が不安定になり、現代のオイルショック的な状態に陥ります。
その煽りを食らった国の一つがオランダ
一度香辛料やアジア産物の楽しみを知ってしまった人間に「我慢しろ」と言われても聞けた話ではありません。
彼らはそこで考えます、
ポルトガル人に出来て、我々に到達できない土地があるものか、と。
ポルトガルの場合、船団の多くは王室が資金を用立てていました。
大航海時代のポルトガルイベント終盤で、インドから運んだコショウが王室管理の商館に運び込まれたのも、その辺の事情があります。(船団を送るには莫大な金額が必要なので
そして、オランダにはそれらの王室にお金を貸し付けるような銀行家や資産家が多くいた事がさらに背中を押します。
ちなみに、ポルトガルも王室がお金を出してはいますが、天文学的な資金を年中プールしてるわけもなく、結局は北海沿岸の銀行家から「借り入れ」ていたようです。
彼らは顔をつき合わせて、自分達で船団を出す事、そしてそのためにそれぞれが「出資」することを考えだしました。
これは一つの歴史的事件でもありました。
「会社」という考え方、また「株」という考え方の。
一つの船団を送り出す為に、例えばその資金を100株にわけ、それぞれが1株からもっと多くに「出資」します。
船が帰ってくれば、その売り上げから経費を差し引いた残りを、持ち株数に応じて分配する。
万が一船団が戻ってこなくとも、そのリスクと損害は分散され、この頃には「保険」という更なるリスクの軽減方法も発明されています。
投資リスクを軽減するシステムを作り出したこと、
これがオランダにとって最大の「武器」となります。
第一回遠征こそ、収支は微黒字程度だったようですが、
二度目の遠征では400%近い利益をあげ、これによってオランダの資本家は確実な手ごたえと更なる東方進出を決断します。
主たる目的地は東南アジア
その後オランダ東インド会社(以下VOC)は、香辛料事業の独占を目指し、アンボイナに本拠を構え
テルナーテに影響を確保し、ポルトガル、イスパニアと争う事になります。
その後、東アジア方面からの明や日本の交易船が立ち寄るジャカルタでの「出会い貿易」(中継地を介しての交易)等へと手を広げ、徐々に東南アジアに地盤を固めはじめます。
その手法は時として、非常に血なまぐさく
時として香辛料産地の島を丸ごと根絶やしにした上で奴隷を運び込む、といったケースが発生することになります(「バンダの殺戮者」こと、ヤン・クーンなど)
方法の善悪は別として、最終的にはオランダは東南アジア事業を事実上独占することに成功します。
オランダが、少なくとも先駆者であったポルトガルを出し抜けた理由
そして東南アジアの覇者たりえた理由は、彼らの武器であった「リスクを軽減するシステム」から生まれた、会社であり、それによる資本動員力の差でもありました。
艦隊をより多く、そして安定して送り込める資金力
そしてそこから生まれた、現地での傭兵から来る軍事力の差
この二つによって、香辛料危機からオランダは脱し、同時にポルトガルから東南アジアを奪い取ります。
その副産物として、ジャカルタを共通の中継港としていた日本とオランダの交流も生み出されました。
もちろん、日本にオランダが利権を持ちえた理由としては、カトリックほど布教を重視しなかった新教国家であるという理由もありましたし
またその上で、何故オランダが金融と資本が「民間」に存在できる国家たりえたか、というあたりまで突っ込むと
古典にして名著、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義」(マックス・ウェーバー)あたりまで話が飛躍するので、その辺はまぁ、個々人で調べていただくと面白いかと思います。
まあ、ルターが生まれなければ日本に銃も出島も出来るのはずっと先だったかも、ってことですな。
閑話休題
そして、オランダの東南アジアの余波を食らって、かの「アンボイナ事件」が起こります。
オランダよりも後発で東南アジアに食い込んできたイギリス商館の襲撃と排除
これによって東南アジアへの進出拠点を潰されたイギリスはその矛先をインドへと変更する事になります。
それが遠い将来、「近代」を生み出す一歩となるとは、誰もまだ思わなかった時代。
大航海時代はその成熟期を迎えつつ、南半球で生み出される産物が欧州そのものを徐々に変革しはじめます。
次回「イギリス東インド会社が運んできたモノ」(仮称
更新日時は未定だけどね!
エスタード・ダ・インディア ポルトガルのインド進出
連載になるかが激しくびみょーではありますが。
最近ぼちぼちと読んでた本などからイロイロ書いてみようかと。
今回はポルトガル編
西欧諸国の中で、いち早くアジアへと進出を果たしたポルトガル
その動機は「香辛料」ともうひとつ、イスラーム世界に対抗するための「東方のキリスト教国家」を探す為だったといわれています。
いわゆるコショウとプレスタージョンの国ですね。
そしてヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてカリカットにたどり着くわけですが。
やっとそこへとたどり着いた時、彼らが思い知ったのは
「いかにヨーロッパが貧しいか」
だったといわれています。
彼がカリカットの支配者のもとへ、贈り物を携えて行った時、その内容は
「1ダースの外套、帽子六個、サンゴ、水盤六個、砂糖1樽。バターとハチミツ2樽」
それに対するカリカット王宮の反応は
「これは王への贈り物などではない。この町にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している。王に何かを求めるつもりなら、金を贈らないと。」
と、大変冷ややかなものだったと言われています。
この会話だけであっても、当時のヨーロッパと、インド洋における交易がもたらした富の差が如実に現れているんじゃないでしょうか。
DOLの中でも、インド、アジアからの帰路に積み込む交易品の豊かさと
往路にヨーロッパから持ち込む交易品のイマイチさを見比べるとよくわかると思いますが。
(ちなみに、ベルベットなどの材料である生糸も大抵が輸入品、純粋にヨーロッパの産物で往路の利益を見込めるのは火器ぐらい)
そして、ガマのこの経験は、インド進出を悲願とするヨーロッパの今後にいくつかの切り口を想起させたのかもしれません。
商才でヨーロッパ人がインドに食い込むのは厳しい事
インドに受け入れられる交易品をヨーロッパから持ち込むのは厳しい事
そして、もう一つ
インド洋には大砲が配備されていないこと。
インド沿岸には火器すら疎らであること。
ガマからインドの情報を受け取ったポルトガルでは、後者二つの情報を重視したのでしょうか
彼らは通商ではなく、武力によってインドへと足場を固める事を決断しました。
カブラルによる第二回遠征は現地での紛争を起こしたのみでしたが。
第三回、ガマによる二度目の遠征により、ポルトガルは砲弾によってインド進出を果たします。
東アフリカのキルワ制圧
カリカット沖でのメッカ巡礼船の略奪(この時の獲得金品はポルトガル王室年収の10%!)
カリカット封鎖、コチンへの商館設立
ガマはこの遠征時、インドに5隻の船を残し欧州へと帰還し、またしても莫大な富を名声を手に入れます。
その後、ポルトガルはゴアに1515年に副王を置き、主として武力を背景とした強引な交易支配に乗り出し、一時的とはいえ莫大な富をインド洋から吸い上げるに到ります。
近代の始まる前、「ポルトガル海上帝国」がスタートした時代でした。
以下余談
ゴアが最初にインドの土を踏んだ際
ヒンドゥー教という存在が西欧に知られていなかったために
「イスラム教徒じゃないんならキリスト教徒だろう、ローマからずっと離れてるせいかなんかヘンだけど」
と、彼らこそが東方キリスト教とだと勘違いしたそうです。
世界にはキリスト教とイスラム教以外ないと思い込んでたのかも?
また、ここにおける「インド交易」とは、主として東アフリカ、ペルシャ湾、紅海、インド西岸を包含したものを指しています。
アフリカからは金、ペルシャ湾紅海などからは宝石や香料、インド西岸からは織物など
波が穏やかで、季節風によって航行が比較的安全に行えたインド洋では昔から国とは別に交易をオ行う「港湾都市」が発展を謳歌していました。
まぁ、DOLの「花商人(インド商人)」そのままですね、要は
今の花商人は、ポルトガル人がインド洋に溶け込んだら、というifの体現と考えると面白いかもしれません。
最近ぼちぼちと読んでた本などからイロイロ書いてみようかと。
今回はポルトガル編
西欧諸国の中で、いち早くアジアへと進出を果たしたポルトガル
その動機は「香辛料」ともうひとつ、イスラーム世界に対抗するための「東方のキリスト教国家」を探す為だったといわれています。
いわゆるコショウとプレスタージョンの国ですね。
そしてヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてカリカットにたどり着くわけですが。
やっとそこへとたどり着いた時、彼らが思い知ったのは
「いかにヨーロッパが貧しいか」
だったといわれています。
彼がカリカットの支配者のもとへ、贈り物を携えて行った時、その内容は
「1ダースの外套、帽子六個、サンゴ、水盤六個、砂糖1樽。バターとハチミツ2樽」
それに対するカリカット王宮の反応は
「これは王への贈り物などではない。この町にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している。王に何かを求めるつもりなら、金を贈らないと。」
と、大変冷ややかなものだったと言われています。
この会話だけであっても、当時のヨーロッパと、インド洋における交易がもたらした富の差が如実に現れているんじゃないでしょうか。
DOLの中でも、インド、アジアからの帰路に積み込む交易品の豊かさと
往路にヨーロッパから持ち込む交易品のイマイチさを見比べるとよくわかると思いますが。
(ちなみに、ベルベットなどの材料である生糸も大抵が輸入品、純粋にヨーロッパの産物で往路の利益を見込めるのは火器ぐらい)
そして、ガマのこの経験は、インド進出を悲願とするヨーロッパの今後にいくつかの切り口を想起させたのかもしれません。
商才でヨーロッパ人がインドに食い込むのは厳しい事
インドに受け入れられる交易品をヨーロッパから持ち込むのは厳しい事
そして、もう一つ
インド洋には大砲が配備されていないこと。
インド沿岸には火器すら疎らであること。
ガマからインドの情報を受け取ったポルトガルでは、後者二つの情報を重視したのでしょうか
彼らは通商ではなく、武力によってインドへと足場を固める事を決断しました。
カブラルによる第二回遠征は現地での紛争を起こしたのみでしたが。
第三回、ガマによる二度目の遠征により、ポルトガルは砲弾によってインド進出を果たします。
東アフリカのキルワ制圧
カリカット沖でのメッカ巡礼船の略奪(この時の獲得金品はポルトガル王室年収の10%!)
カリカット封鎖、コチンへの商館設立
ガマはこの遠征時、インドに5隻の船を残し欧州へと帰還し、またしても莫大な富を名声を手に入れます。
その後、ポルトガルはゴアに1515年に副王を置き、主として武力を背景とした強引な交易支配に乗り出し、一時的とはいえ莫大な富をインド洋から吸い上げるに到ります。
近代の始まる前、「ポルトガル海上帝国」がスタートした時代でした。
以下余談
ゴアが最初にインドの土を踏んだ際
ヒンドゥー教という存在が西欧に知られていなかったために
「イスラム教徒じゃないんならキリスト教徒だろう、ローマからずっと離れてるせいかなんかヘンだけど」
と、彼らこそが東方キリスト教とだと勘違いしたそうです。
世界にはキリスト教とイスラム教以外ないと思い込んでたのかも?
また、ここにおける「インド交易」とは、主として東アフリカ、ペルシャ湾、紅海、インド西岸を包含したものを指しています。
アフリカからは金、ペルシャ湾紅海などからは宝石や香料、インド西岸からは織物など
波が穏やかで、季節風によって航行が比較的安全に行えたインド洋では昔から国とは別に交易をオ行う「港湾都市」が発展を謳歌していました。
まぁ、DOLの「花商人(インド商人)」そのままですね、要は
今の花商人は、ポルトガル人がインド洋に溶け込んだら、というifの体現と考えると面白いかもしれません。
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