ヴェネツィア観光案内=後編=
で、後編
こっから見始めた人は前編を先にどうぞ。
〜船着場〜

船着場、というか
ヴェネツィアだけに海沿いは大概が船をつけられるようになっております。
大型船の場合は、恐らくこんなふうに沖に停めて、ボートなどで人員を揚げたりしていたのだと思われます。
そして船着場で揚げた物品は、商館などに運び込まれたり、そこで売り買いがされたのでしょうか。
建物と船着場の間が広いのもそのためかな?
右に立っている杭は、ゴンドラなどを停めたりするためのものですね。
〜カナル・グランデ河口〜
残念ながら、ヴェネツィアのMAPはカナル・グランデの東側だけなのですが。
所々では奥のほうに広い運河が見えたりします。
河口のSSはこちら。

左奥の広い河口がカナル・グランデの出口だと思われます
ちゃんと作る辺りが細かい。
てことは、リアルト橋はどこになるのかなぁ、と思ってうろうろした結果

学校へと繋がるこの門の向こう側が多分リアルト橋に出るはず、のポイント。
ヴェネツィアで航海者学校に通う人は、きっと内陸部まで毎日リアルト橋を渡って登校してるんですね。
いつか渡らせてくれりゃーいいのに。
ちなみに、サンマルコ広場からリアルト方面に抜ける道というと、入り口にある「ムーア人の時計塔」(毎日12時にオートマタ(自動人形)が鐘を叩く)
この時代にはまだないはずですが、それが現在建っているポイントが。

こちら、広場の出航所役人がいるところです。
酒場主人もいて、広場ではよく人が溜まっているポイントになってます。
〜アーセナル〜
ヴェネツィアといえば、その屋台骨を支えた造船業
全盛期には100隻もの船を短期間で送り出したという、当時ではぶっちぎりの世界最大の造船所(アーセナル)。
その一部はPCも「造船所」として利用できますが、
実際のアーセナルはもうちょっと東に位置していました。
元首公邸の東にある、牢獄のあったエリアのさらに向こう、河を二つ先に渡ったあたりからがアーセナルで
このあたりはヴェネツィアで唯一、機密保持と火薬事故を防ぐ為に城壁で囲まれていました。
ヴェネツィアの造船所は一種の流れ作業で、建造から艤装、武装までがアーセナル内の水路を移動しながら、専門の職人集団によって組み込まれていったそうです。
流石にその有名な造船所には入れませんが、位置的にそこに繋がりそうないかつい門が、街の北東のはずれにありました。

門ががっちりしてて、多分この向こうがアーセナルなんだろうなーと予想。
〜カンポと井戸〜

ヴェネツィアは、運河沿いに家が並んでおり、島の中央は広場になっています。
その広場が「カンポ」で、それを繋ぐ小道を「カッレ」と呼びました。
カンポごとに教会があって、そこで一つのコミュニティを形成していたそうです。(教会まではDOLではない
そして、カンポの中央には井戸がありました。
DOLのヴェネツィアでも、広場ごとに井戸が設置されていました、細かいなおい。
ちなみにこの井戸
地下水をくみ上げていたわけではありませんでした(ヴェネツィアは基本的に海上)
広場の下には、でっかい雨水を溜める貯水施設が埋めてありまして
広場に降った雨を下のブールに溜めて、それをくみ上げて生活用水を確保していたそうです。
プールの中には浄化設備として砂が詰めてあったので、ちゃんときれいな水が確保できてたんですね。
カンポも井戸も、海上都市というヴェネツィアらしい生活設備でもあったようです。
ざくっと気付いた点を書いてみたらこれだけ。
意外と細かいところまで作りこんであるので、建物の様式なんかをぶらぶら見歩くのも楽しい街ですね、ヴェネツィアは特に。
東西文化の交流する街、海上貿易の街であるヴェネツィア
ちょっとばかりアドリアの逆風は厳しいですが、それでも年中人がいるのは、単に夕暮れが美しいだけじゃないんですね。
こっから見始めた人は前編を先にどうぞ。
〜船着場〜

船着場、というか
ヴェネツィアだけに海沿いは大概が船をつけられるようになっております。
大型船の場合は、恐らくこんなふうに沖に停めて、ボートなどで人員を揚げたりしていたのだと思われます。
そして船着場で揚げた物品は、商館などに運び込まれたり、そこで売り買いがされたのでしょうか。
建物と船着場の間が広いのもそのためかな?
右に立っている杭は、ゴンドラなどを停めたりするためのものですね。
〜カナル・グランデ河口〜
残念ながら、ヴェネツィアのMAPはカナル・グランデの東側だけなのですが。
所々では奥のほうに広い運河が見えたりします。
河口のSSはこちら。

左奥の広い河口がカナル・グランデの出口だと思われます
ちゃんと作る辺りが細かい。
てことは、リアルト橋はどこになるのかなぁ、と思ってうろうろした結果

学校へと繋がるこの門の向こう側が多分リアルト橋に出るはず、のポイント。
ヴェネツィアで航海者学校に通う人は、きっと内陸部まで毎日リアルト橋を渡って登校してるんですね。
いつか渡らせてくれりゃーいいのに。
ちなみに、サンマルコ広場からリアルト方面に抜ける道というと、入り口にある「ムーア人の時計塔」(毎日12時にオートマタ(自動人形)が鐘を叩く)
この時代にはまだないはずですが、それが現在建っているポイントが。

こちら、広場の出航所役人がいるところです。
酒場主人もいて、広場ではよく人が溜まっているポイントになってます。
〜アーセナル〜
ヴェネツィアといえば、その屋台骨を支えた造船業
全盛期には100隻もの船を短期間で送り出したという、当時ではぶっちぎりの世界最大の造船所(アーセナル)。
その一部はPCも「造船所」として利用できますが、
実際のアーセナルはもうちょっと東に位置していました。
元首公邸の東にある、牢獄のあったエリアのさらに向こう、河を二つ先に渡ったあたりからがアーセナルで
このあたりはヴェネツィアで唯一、機密保持と火薬事故を防ぐ為に城壁で囲まれていました。
ヴェネツィアの造船所は一種の流れ作業で、建造から艤装、武装までがアーセナル内の水路を移動しながら、専門の職人集団によって組み込まれていったそうです。
流石にその有名な造船所には入れませんが、位置的にそこに繋がりそうないかつい門が、街の北東のはずれにありました。

門ががっちりしてて、多分この向こうがアーセナルなんだろうなーと予想。
〜カンポと井戸〜

ヴェネツィアは、運河沿いに家が並んでおり、島の中央は広場になっています。
その広場が「カンポ」で、それを繋ぐ小道を「カッレ」と呼びました。
カンポごとに教会があって、そこで一つのコミュニティを形成していたそうです。(教会まではDOLではない
そして、カンポの中央には井戸がありました。
DOLのヴェネツィアでも、広場ごとに井戸が設置されていました、細かいなおい。
ちなみにこの井戸
地下水をくみ上げていたわけではありませんでした(ヴェネツィアは基本的に海上)
広場の下には、でっかい雨水を溜める貯水施設が埋めてありまして
広場に降った雨を下のブールに溜めて、それをくみ上げて生活用水を確保していたそうです。
プールの中には浄化設備として砂が詰めてあったので、ちゃんときれいな水が確保できてたんですね。
カンポも井戸も、海上都市というヴェネツィアらしい生活設備でもあったようです。
ざくっと気付いた点を書いてみたらこれだけ。
意外と細かいところまで作りこんであるので、建物の様式なんかをぶらぶら見歩くのも楽しい街ですね、ヴェネツィアは特に。
東西文化の交流する街、海上貿易の街であるヴェネツィア
ちょっとばかりアドリアの逆風は厳しいですが、それでも年中人がいるのは、単に夕暮れが美しいだけじゃないんですね。
ヴェネツィア観光案内=前編=
てことで、DOLのCGを使って適当に更新をしようのコーナー
KOEIの変なところに凝った街の作りとかを楽しむのが主な目的、
第一回はヴェネツィア編、第二回は例によって未定。
〜サンマルコ寺院〜

完成は832年、以降増改築と燃えたりを繰り返して今に到る。
言うまでもないメジャースポット、ヴェネツィアにコレを見に来る人は今でもいる。
ちなみに、ここはマルコの遺骸がありますが、ローマカトリックの管轄ではなく、ヴェネツィア国営寺院。
近所のアパルトメントとかも含めて、「サンマルコ寺院財団」的なものが管理していた立派な国有物件です。
従って、ここの司祭を任命するのはヴェネツィア共和国、ローマ法王的にはかなり文句がありそうな寺院です。
で、この寺院の細かい点を見てみよう!
先ず、この入り口上に飾られている四つの青銅の馬
第四次十字軍の戦利品として有名なこれが、ちゃんと作られているかなーと思ってみると。

ばっちりありました、でも何故か二つ。
いやいや、コピペでいいから四つ置こうよ!とか思いつつ次にいってみよう。
〜元首公邸(パラッツォ・ドゥカーレ)〜

元老院のある場所、ちなみに裁判所とかも中にあるらしい。
川向こうには牢獄があり、公邸から牢獄を繋ぐ橋がいわゆる「ため息橋」(ただしDOLでは牢獄も橋もない)
完成は1340〜1404年にかけて。
平面はロの字になっており、中庭をぐるっと囲むかたちになっております。
ヴェネツィアンゴシックの先駆的建築物。
東西の様々な建築様式がミックスされているので、細かく観察すると面白い建物になっています。
で、この前にあるのが小マルコ広場(サンマルコ前が大マルコ広場

DOLでは描かれていませんが、ここには二本のライオンの彫像がのった柱が立っておりまして。
そこはまぁ、絞首刑用の柱として使われてたりもしました、こわいこわい。
また、重要な情報を持ち帰った連絡船などはこの広場に船を乗り付けて、その足で元老院に報告に走ったりしたそうです。
ちなみに小マルコ広場の小ネタがこちら

このベンチ、置いたのはヴェネツィア元首だったそうです。
「市民と元老院が親しく近い関係にあるように」という願いの一環だったそうで。
ただまぁ、それを曲解した一部の市民がここで博打をしたりして、かえって頭痛の種になったとか。
と、ここまで書いて「なげーよ」と思ったので、第二回に分割します。
次はさらに重箱の隅をつつく予定。
KOEIの変なところに凝った街の作りとかを楽しむのが主な目的、
第一回はヴェネツィア編、第二回は例によって未定。
〜サンマルコ寺院〜

完成は832年、以降増改築と燃えたりを繰り返して今に到る。
言うまでもないメジャースポット、ヴェネツィアにコレを見に来る人は今でもいる。
ちなみに、ここはマルコの遺骸がありますが、ローマカトリックの管轄ではなく、ヴェネツィア国営寺院。
近所のアパルトメントとかも含めて、「サンマルコ寺院財団」的なものが管理していた立派な国有物件です。
従って、ここの司祭を任命するのはヴェネツィア共和国、ローマ法王的にはかなり文句がありそうな寺院です。
で、この寺院の細かい点を見てみよう!
先ず、この入り口上に飾られている四つの青銅の馬
第四次十字軍の戦利品として有名なこれが、ちゃんと作られているかなーと思ってみると。

ばっちりありました、でも何故か二つ。
いやいや、コピペでいいから四つ置こうよ!とか思いつつ次にいってみよう。
〜元首公邸(パラッツォ・ドゥカーレ)〜

元老院のある場所、ちなみに裁判所とかも中にあるらしい。
川向こうには牢獄があり、公邸から牢獄を繋ぐ橋がいわゆる「ため息橋」(ただしDOLでは牢獄も橋もない)
完成は1340〜1404年にかけて。
平面はロの字になっており、中庭をぐるっと囲むかたちになっております。
ヴェネツィアンゴシックの先駆的建築物。
東西の様々な建築様式がミックスされているので、細かく観察すると面白い建物になっています。
で、この前にあるのが小マルコ広場(サンマルコ前が大マルコ広場

DOLでは描かれていませんが、ここには二本のライオンの彫像がのった柱が立っておりまして。
そこはまぁ、絞首刑用の柱として使われてたりもしました、こわいこわい。
また、重要な情報を持ち帰った連絡船などはこの広場に船を乗り付けて、その足で元老院に報告に走ったりしたそうです。
ちなみに小マルコ広場の小ネタがこちら

このベンチ、置いたのはヴェネツィア元首だったそうです。
「市民と元老院が親しく近い関係にあるように」という願いの一環だったそうで。
ただまぁ、それを曲解した一部の市民がここで博打をしたりして、かえって頭痛の種になったとか。
と、ここまで書いて「なげーよ」と思ったので、第二回に分割します。
次はさらに重箱の隅をつつく予定。
イギリス東インド会社が運んできたモノ
ということで、微妙に文章が長くてクドいシリーズ第三弾。
イギリス東インド会社編
ちなみに正確にはイングランド東インド会社と表記するべきなのかもですが、クドい事を言うとややこしいのでイギリスで呼称を統一しときます。
では本論。
-----
ポルトガルによるインド航路開拓、その後のアルマダ戦争を契機として大西洋の制海権をリードするイギリス【イングランドでもいいけd(ry】ではありましたが。
そのような情勢を背景として隣国オランダがアジアに進出するに到ると、当然の帰結としてイギリス国内にもアジア進出という可能性を検討する商人が現れます。
そして当時の金融中心地はオランダとロンドン
オランダの先例を踏襲するようにして、ロンドンの資本家はインド航路開拓のために莫大な投資を行い、東インド会社を発足させます。
ただし、イギリスの場合には既にそれと似た組織が存在していました。
「レヴァント(東方)会社」
レヴァント会社が存在していた理由は、海路の開発以前であっても可能な交易路として、モスクワなどの陸路を通じた東方貿易であり、ある程度の成功を収めていました。
しかし、その東方貿易はヴェネツィアなどのそれと同じく、大航海時代の到来とポルトガル、オランダなどの海路による東方貿易に押されはじめます。
それに危機感を抱いた当時のロンドン商人(余談ですが、民間資本でインド進出が可能だったのは当時の金融中心地たるオランダとロンドンぐらい)は、宮廷へと働きかけ、インド交易の独占を国王に認めさせます(特許状の発行)。
この特許状により、少なくともイギリス国内における東方貿易事業の独占が担保され、当時の一般的年収が10ポンドに対して、六万8373ポンドもの資本を結集してイギリス東インド会社は船団を東方へと送り込みました。
彼らが目指したのは、まだポルトガルが元気だったインドではなく、香料諸島。
ですが、そこには既に圧倒的な資金と物量を誇るオランダが根を張りつつありました
幾度もの香料諸島での衝突の中で、イギリス船は度々拿捕され、辛うじてマカッサルやスマトラ島あたりまでの交易は維持するものの、アンボイナ事件が起きるに到ると、DOLプレイヤーなら馴染み深いメースやナツメグ交易からは締め出されてしまいます。
そのような情勢下において
香料諸島におけるジリ貧を打開すべく、イギリスが更なる進出先に選んだのはインド亞大陸でした。
ポルトガルがゴアに要塞を築き、インド西海岸とアフリカ、中近東の交易に重心を置いていた事もあり、イギリスはインド東海岸へとその重心をシフトさせます。
マドラスに拠点を置いた、イギリス東インド会社(のインド支店)の人々は
古くから東南アジアへの主な輸出品だった東海岸(コロマンデル海岸)の綿生地を手にした時、その肌触りに驚いたかもしれません。
インド綿は非常に肌触りがよく、また繊維が長いために非常に細い糸を紡ぐことが可能であり
それによって、絹と見まごう程のしなやかさを持った織物がインドでは産出されていました。
最初にその綿生地は、東インド会社の性質からしてあくまで東南アジアで香辛料を買うための輸出品として運ばれますが
徐々にそれはイギリス本国でも人気を博するようになります。
同時に、インド綿はアフリカ、新大陸、西インド諸島のプランテーションなどでも需要が増し、イギリス東インド会社の稼ぎ頭となっていきました。
当時のイギリスの織物といえば、チクチクする毛織物かバカ高い絹織物が主だった時代
絹のようにしなやかで、かつ圧倒的に安価で買えるインド綿が人気を博するのは当然でしたし
世界のどこにもっていっても需要があるものならば、DOLのようにいつでも巨額の現金を引き出せる銀行が世界中にあるわけでもない時代
通貨がわりに綿生地を持っていって、現地で香辛料や貴金属、砂糖などを購入できるならば便利この上なかったことでしょう。
そしてイギリスのインド交易で見逃せないのが、やはりお茶
この頃になると、コーヒーショップは欧州のどこでも普及していたそうです、
しかし、同時にそこは男達の集まる場所でもあり、、金融や世界情勢などの情報交換が行われる場所であったり
時にはコーヒーショップのオーナーが非常に海運などの情報を豊かに仕入れた結果、海上保険を始めたりすることもあったそうです(保険会社のロイズはもともとコーヒーショップのオーナーが始めた)
ちょっと話がずれましたが。
そのようにビジネス色が濃く、男臭い場所であったコーヒーショップに対し(今でもそのケはあると思う
ポルトガル王女キャサリンがイギリスに嫁ぐ際に持ち込んだ「喫茶」という習慣は、イギリス宮廷の女性陣からどんどんと下の階層へと広まり
19世紀に入ってアッサム種の発見やインド、セイロン島での茶園の広まりによってぐっと安価に手に入るようになったお茶は、イギリス女性の文化として根付く事となりました。
イギリスが押さえていたインド東海岸からセイロン島あたりまでが茶の栽培に適していた事が、茶文化を後押しした面もあるでしょう。
綿生地と茶
その二つがイギリス固有の、「東方から運ばれてくるモノ」となりました
香辛料ももちろん入ってきましたが、それはどこの国でもある程度は運んでいましたしね。
このあたりで、微妙にこの二つを見てピンときた方は世界史5だと認定(勝手に
綿生地
これは、香辛料や茶と違い、既存の本国労働者の打撃となる面がありました
毛織物業者や絹織物業者と「織物」というカテゴリにおいて競合したのです。
そして、イギリスは毛織物職人が一杯いた国
当然、売り上げがガタ落ちした毛織物職人達はなんとかして安価かつ高品質のインド綿の流入を阻止しようとします。
稀代のヘンテコ法律が多い事で有名なイギリスですから(コラ
あれこれと変な法律(埋葬時には遺体を毛織物で包め!とか)を制定したりして毛織物保護に努めますが。
この手の法律で息を吹き返す産業なんてものがあり得ないのはまた事実で。
結果的に、イギリス織物業界は大打撃を受け、新たな市場を考える必要に迫られます。
インド綿に勝つにはどうすればいいか。
安価で高品質、インドの人口を背景とした生産力、それに勝つにはどうするか。
結論は到ってシンプル
「さらに安価で高品質で、人口が少なくても一杯作れる方法を考えよう」
その必要を満たす技術の誕生を、私達は「産業革命」として記憶しています。
東方貿易にクローズアップすると忘れガチですが、イギリスにはアメリカという「裏庭」が存在していました
そこからインドよりもさらに大掛かりに綿花(原材料)を仕入れ、人間が織るよりももっと早く、安定した品質で織る技術(機械!)が開発されました
産業革命がイギリスで、そして「織り機」から始まったのは、けして偶然ではなく
東方交易と国内産業が競合する「織物」というジャンルが発生した事によって引き起こされた事件でもありました。
それにより、今度は綿生地という交易品が輸入品目ではなく、イギリスの輸出品目として
そしてそのための労働力を集める必要が生じたために、「都市への労働力の集中」が生じます。
そして当時の貧しい労働者の朝食は、たっぷりの砂糖とミルクを入れた紅茶(糖分と脂質)が担っていました、
東方から運びこまれる紅茶を飲んだ労働者が、アメリカの綿花をイギリスで綿生地にして東方へと輸出する。
大雑把ではありますが、そんなサイクルによって産業革命を生んだイギリスは更なる版図を得る力と国力をつけてゆきます。
いつからか「大英帝国」と呼ばれるほどに。
都市へと集中する人口と産業革命による生産力の向上
それは「民間」が多大な資本力を獲得し得る時代の始まりでもありました、そして生まれた「資本主義」
そして大陸におけるフランス革命による「国民国家」という概念の広まり
資本主義の誕生と国民国家、そして機械による圧倒的な生産力。
それによって生み出された新たな時代を彼らは「近代」と呼ぶ事になります。
そして近代のお膳立てが整う頃、それに道を譲るようにオランダ、フランス、イギリスの東インド会社はその看板を下ろすことになります。
最後に退場するイギリス東インド会社が1858年
ヴァズコ・ダ・ガマがカリカットへたどり着いたのが1498年
およそ350年にもわたって、香料諸島も含んだ「東インド」は貧しい土地しか知らない西ヨーロッパの人々の憧れの土地でもありました。
そしてそこからもたらされる産物はただの商品ではなく、互いの文化的交流でもあり、それぞれの土地と文化を少しずつ変容させていったのです。
東インド会社を畳んでからたったの60年後には
「近代」を迎えた彼らが、その圧倒的な国力を背景として世界を分割し始める「第一次世界大戦」に突入するなんて、誰も思わなかったそんな時代。
イギリス東インド会社編
ちなみに正確にはイングランド東インド会社と表記するべきなのかもですが、クドい事を言うとややこしいのでイギリスで呼称を統一しときます。
では本論。
-----
ポルトガルによるインド航路開拓、その後のアルマダ戦争を契機として大西洋の制海権をリードするイギリス【イングランドでもいいけd(ry】ではありましたが。
そのような情勢を背景として隣国オランダがアジアに進出するに到ると、当然の帰結としてイギリス国内にもアジア進出という可能性を検討する商人が現れます。
そして当時の金融中心地はオランダとロンドン
オランダの先例を踏襲するようにして、ロンドンの資本家はインド航路開拓のために莫大な投資を行い、東インド会社を発足させます。
ただし、イギリスの場合には既にそれと似た組織が存在していました。
「レヴァント(東方)会社」
レヴァント会社が存在していた理由は、海路の開発以前であっても可能な交易路として、モスクワなどの陸路を通じた東方貿易であり、ある程度の成功を収めていました。
しかし、その東方貿易はヴェネツィアなどのそれと同じく、大航海時代の到来とポルトガル、オランダなどの海路による東方貿易に押されはじめます。
それに危機感を抱いた当時のロンドン商人(余談ですが、民間資本でインド進出が可能だったのは当時の金融中心地たるオランダとロンドンぐらい)は、宮廷へと働きかけ、インド交易の独占を国王に認めさせます(特許状の発行)。
この特許状により、少なくともイギリス国内における東方貿易事業の独占が担保され、当時の一般的年収が10ポンドに対して、六万8373ポンドもの資本を結集してイギリス東インド会社は船団を東方へと送り込みました。
彼らが目指したのは、まだポルトガルが元気だったインドではなく、香料諸島。
ですが、そこには既に圧倒的な資金と物量を誇るオランダが根を張りつつありました
幾度もの香料諸島での衝突の中で、イギリス船は度々拿捕され、辛うじてマカッサルやスマトラ島あたりまでの交易は維持するものの、アンボイナ事件が起きるに到ると、DOLプレイヤーなら馴染み深いメースやナツメグ交易からは締め出されてしまいます。
そのような情勢下において
香料諸島におけるジリ貧を打開すべく、イギリスが更なる進出先に選んだのはインド亞大陸でした。
ポルトガルがゴアに要塞を築き、インド西海岸とアフリカ、中近東の交易に重心を置いていた事もあり、イギリスはインド東海岸へとその重心をシフトさせます。
マドラスに拠点を置いた、イギリス東インド会社(のインド支店)の人々は
古くから東南アジアへの主な輸出品だった東海岸(コロマンデル海岸)の綿生地を手にした時、その肌触りに驚いたかもしれません。
インド綿は非常に肌触りがよく、また繊維が長いために非常に細い糸を紡ぐことが可能であり
それによって、絹と見まごう程のしなやかさを持った織物がインドでは産出されていました。
最初にその綿生地は、東インド会社の性質からしてあくまで東南アジアで香辛料を買うための輸出品として運ばれますが
徐々にそれはイギリス本国でも人気を博するようになります。
同時に、インド綿はアフリカ、新大陸、西インド諸島のプランテーションなどでも需要が増し、イギリス東インド会社の稼ぎ頭となっていきました。
当時のイギリスの織物といえば、チクチクする毛織物かバカ高い絹織物が主だった時代
絹のようにしなやかで、かつ圧倒的に安価で買えるインド綿が人気を博するのは当然でしたし
世界のどこにもっていっても需要があるものならば、DOLのようにいつでも巨額の現金を引き出せる銀行が世界中にあるわけでもない時代
通貨がわりに綿生地を持っていって、現地で香辛料や貴金属、砂糖などを購入できるならば便利この上なかったことでしょう。
そしてイギリスのインド交易で見逃せないのが、やはりお茶
この頃になると、コーヒーショップは欧州のどこでも普及していたそうです、
しかし、同時にそこは男達の集まる場所でもあり、、金融や世界情勢などの情報交換が行われる場所であったり
時にはコーヒーショップのオーナーが非常に海運などの情報を豊かに仕入れた結果、海上保険を始めたりすることもあったそうです(保険会社のロイズはもともとコーヒーショップのオーナーが始めた)
ちょっと話がずれましたが。
そのようにビジネス色が濃く、男臭い場所であったコーヒーショップに対し(今でもそのケはあると思う
ポルトガル王女キャサリンがイギリスに嫁ぐ際に持ち込んだ「喫茶」という習慣は、イギリス宮廷の女性陣からどんどんと下の階層へと広まり
19世紀に入ってアッサム種の発見やインド、セイロン島での茶園の広まりによってぐっと安価に手に入るようになったお茶は、イギリス女性の文化として根付く事となりました。
イギリスが押さえていたインド東海岸からセイロン島あたりまでが茶の栽培に適していた事が、茶文化を後押しした面もあるでしょう。
綿生地と茶
その二つがイギリス固有の、「東方から運ばれてくるモノ」となりました
香辛料ももちろん入ってきましたが、それはどこの国でもある程度は運んでいましたしね。
このあたりで、微妙にこの二つを見てピンときた方は世界史5だと認定(勝手に
綿生地
これは、香辛料や茶と違い、既存の本国労働者の打撃となる面がありました
毛織物業者や絹織物業者と「織物」というカテゴリにおいて競合したのです。
そして、イギリスは毛織物職人が一杯いた国
当然、売り上げがガタ落ちした毛織物職人達はなんとかして安価かつ高品質のインド綿の流入を阻止しようとします。
稀代のヘンテコ法律が多い事で有名なイギリスですから(コラ
あれこれと変な法律(埋葬時には遺体を毛織物で包め!とか)を制定したりして毛織物保護に努めますが。
この手の法律で息を吹き返す産業なんてものがあり得ないのはまた事実で。
結果的に、イギリス織物業界は大打撃を受け、新たな市場を考える必要に迫られます。
インド綿に勝つにはどうすればいいか。
安価で高品質、インドの人口を背景とした生産力、それに勝つにはどうするか。
結論は到ってシンプル
「さらに安価で高品質で、人口が少なくても一杯作れる方法を考えよう」
その必要を満たす技術の誕生を、私達は「産業革命」として記憶しています。
東方貿易にクローズアップすると忘れガチですが、イギリスにはアメリカという「裏庭」が存在していました
そこからインドよりもさらに大掛かりに綿花(原材料)を仕入れ、人間が織るよりももっと早く、安定した品質で織る技術(機械!)が開発されました
産業革命がイギリスで、そして「織り機」から始まったのは、けして偶然ではなく
東方交易と国内産業が競合する「織物」というジャンルが発生した事によって引き起こされた事件でもありました。
それにより、今度は綿生地という交易品が輸入品目ではなく、イギリスの輸出品目として
そしてそのための労働力を集める必要が生じたために、「都市への労働力の集中」が生じます。
そして当時の貧しい労働者の朝食は、たっぷりの砂糖とミルクを入れた紅茶(糖分と脂質)が担っていました、
東方から運びこまれる紅茶を飲んだ労働者が、アメリカの綿花をイギリスで綿生地にして東方へと輸出する。
大雑把ではありますが、そんなサイクルによって産業革命を生んだイギリスは更なる版図を得る力と国力をつけてゆきます。
いつからか「大英帝国」と呼ばれるほどに。
都市へと集中する人口と産業革命による生産力の向上
それは「民間」が多大な資本力を獲得し得る時代の始まりでもありました、そして生まれた「資本主義」
そして大陸におけるフランス革命による「国民国家」という概念の広まり
資本主義の誕生と国民国家、そして機械による圧倒的な生産力。
それによって生み出された新たな時代を彼らは「近代」と呼ぶ事になります。
そして近代のお膳立てが整う頃、それに道を譲るようにオランダ、フランス、イギリスの東インド会社はその看板を下ろすことになります。
最後に退場するイギリス東インド会社が1858年
ヴァズコ・ダ・ガマがカリカットへたどり着いたのが1498年
およそ350年にもわたって、香料諸島も含んだ「東インド」は貧しい土地しか知らない西ヨーロッパの人々の憧れの土地でもありました。
そしてそこからもたらされる産物はただの商品ではなく、互いの文化的交流でもあり、それぞれの土地と文化を少しずつ変容させていったのです。
東インド会社を畳んでからたったの60年後には
「近代」を迎えた彼らが、その圧倒的な国力を背景として世界を分割し始める「第一次世界大戦」に突入するなんて、誰も思わなかったそんな時代。
| HOME |




